川について聞く・学ぶ

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荒関 メモ(NPO法人水環境北海道専務理事)
○ 戦後50年を経て、蛇口をひねると水が出る生活が当たり前になった。この生活様式の変化は、蛇口の向こうにある川との付き合いを忘れさせ、川を著しく汚濁するに至った。改めて足元を見ると、水の利用と洪水の防止以外に価値を見いだせない無惨な姿に気づく。

○ 社会そのものが制度疲労を起こしている状況下、法制度の万全な整備を期待すること自体に無理があると言わざるを得ない。問題なのは、流域環境管理に誰がイニシアティブを発揮するのかであり、そして、個々が職域を越えて、地域と国家に責任をもつ活動の主体となり得るかどうかである。

○ 上流で水を汚せば下流に被害が及ぶ。また汚れた海で獲れた魚を上流の住民も口にすることになる。河川環境の改善のためには、上・中・下流をとおして、「流域はひとつ」という意識を共有することが重要であり、これを「流域連携」と称している。

○ EボートのEは、
     Exchange(上下流交流)をはじめ
     Ecology(生態)
     Environment(環境)
     Eternity(永遠)の意味がこめられている。    さらに昨今は、環境教育の重要性から、
     Education(教育)の意味も込められている。

○ 漁川及び茂漁川(恵庭市)では、河川愛護団体が中心となり、町内会総出の河川清掃が行われている。これに出向いた河川管理者がゴミの少なさに驚くと、住民の方より「ゴミを拾う人はゴミを出さない。我々のゴミ拾いはそうした精神を身につけるためにやっている」という回答があった。

○ 水質も含めた流域の、それも膨大な面積の環境管理の責任をどのように考えるべきなのだろうか。近年、自然環境及びそれによって育まれる水をはじめとする様々な資源の修復は、従来にみる個別の対症療法的手法での限界から、「流域環境管理」のシステムマネジメントに着目されている。

○ 臭いモノに蓋をしたり、美味しいものを食べてその始末を水で流して後は知らない。このような生活を文明と称する時代は終わったと言っても良いのではないだろうか。隔離された水辺から人目にさらされる水辺、生活の場と直結した水辺への転換をしてこそ、山紫水明の国土が戻って来るのであり、水の民である日本人には、そうした国土がよく似合う。     『流域環境管理序曲としての交流から連携へ』より

○ 自分は川とのつながりで育ってきた世代。ところが、今の子どもたちはどうだろうか。「川に学ぶ社会」というキーワード。川に学ぶとは、命を学ぶことである。川の付き合い方で魚は死ぬ。川は最も身近に感じる場所であるが、その川が変わってきた。川を取り戻そう。そこで、川では初めてのNPO法人水環境北海道を立ち上げた。

○ 「川のコンクリート護岸が悪い」との指摘。しかし、終戦直後の食糧難時は逆にこの護岸工事で助けられた。また、回りに自然も多かった。ところが、時代とともにコンクリート文明論がコンクリート悪に変わってきた。つまり、目先の問題にばかりとらわれずに、先を見通した(骨太な理論、体験に基づいた)考えをプロジェクトチームにももってほしい。

○ 川の汚れの原因は生活排水だ。しかし、自分が川で生活していれば汚すことはないだろう。かつてはそうだった。自分は川を汚していないか。

○ 江戸時代はリサイクル型社会である。利根川上流で米作り、下流で消費し(厠)堆肥として上流へ。中世になってからの下水道はフランスが最初。
路上にふん尿。そこから、ハイヒールや香水が出現。   『 9月の川の日 荒関 講話から』
シンポジウムより
○ 環境教育(野外活動)が子どもたちに何を教えてくれるだろうか。野外は、何の規制もない自由な空間なのです。思い切り羽を伸ばすことができると同時に、すべての行動に自分で責任をもたなくてはならないことになる。

○ 子どもたちにとっての自然とのふれあいは冒険である。冒険は、危険を冒すことで、すべてが成功するわけではないので、自ずと注意力が身についていく。すなわち、冒険は人生そのものであると言えよう。そして、楽しいことや恐ろしいことなどの体験したすべての出来事が、自分の人生の中で大いに役立つものである。

○ 野外での活動を通じて、自然の中で生きる技を学び、自然の中で守る優しさを身につけ、経験を重ねるたびに計画性をもった人間に成長していくものである。 水辺の楽校の「楽」が「学」でないことは、色々な体験の中から「楽しかった」を感じさせる意味と考えられるが、一つ違うと楽(らく)して自然に親しむことを考えたのでは、環境教育にはならないと同時に何一つ身につかないことになる。

○ 自然の川や山野など本来の原風景を想像でき、しかも、その中で各々の体験をしてきた人たちが、真の指導者として環境教育の指導に当たるべきである。今、各地に自然の達人がいないといわれているが、自然とたちむかいながら生活をし、また自然からの恩恵を十分にいただきながら生活してきた年代の方々から、その知恵を習得したしたり、指導員として活躍していただくようなことが必要である。
『 妹尾 優二氏 エコテック/流域生態研究所「水辺の楽校プロジェクトに思う』より

○ 環境維持において、後世に大きな借りを残す現代社会、それを作ってきたのは、「大人の責任」である。次の時代を生きる人は、かつてないほどに環境に対して配慮しなくてはならない。親が動かなければ子どもは動かない。

○ 「危ない」から全てだめなのか? 判断する力を身につける必要がある。

○ 治水一辺倒の護岸、水の事故防止。かつては身近だった川が遠のいた。柵を作り、「川に行くな」と教えて30年余りが経つ。これからは新しくも懐かしい川と子どもの関係を創りたい。

○ 川で遊ぶとは、水と戯れる。それ以外に、残された生命の流れを体感する。上流と下流を意識することにより、自然環境と自分たちの生活を考え直す契機となることを認識する必要がある。

○ 子どもが大人になったとき、心の糧として生きていく。環境教育の成果として長い時間を経て実を結ぶ。存分に遊んだところが本当の「ふるさと」ではないだろうか。
『十勝NGO共同事務所 帯広環境教育研究所 運営委員会資料』 より

○ 原体験とは、端的にいうと物に触れたり、匂いを嗅いだり、食べたりする触覚、嗅覚、味覚の基本感覚を伴った直接体験です。これは何も新しいことではなく、昔の子どもたちが日常行ってきた遊びそのものです。 今の子どもたちは遊ぶ自然のあるなしにかかわらず、精神的にも自然離れしています。自然はきたないものとして触れないようになっています。

○ 木に登って野生の木の実を食べるといった体験はほとんどなくなっています。これは子どものせいではなく、親をはじめ周りの人の責任です。人の遺伝子は縄文時代も21世紀の未来人も変わってはいません。小さい危険の体験は大きな危険の防止に役立ちます。いわば安全教育として捉えていきたいものです。現在、この原体験の場選びの観点として、水、石、土、火、草、木、動物の7つの類型を考え、これに餓え、渇き、暗やみといった生理的、感性的な体験を考慮した実践が行われた時に、自然に対する愛着が生まれ、真の環境教育の基礎が培われると思います。  『太田 昇氏 おびひろサケの会事務局長 【原体験】こそ環境教育の基礎』 より
話し合いの中から
○ 川で遊ぶ子どもを活動の目的に据えることが多いが、最終目的は学校の行き帰りでも、いつでも川に入っている子どもの姿ではないだろうか。

○ 学校は「川へ行くな」とずっと言ってきた。先生方も突然行けとは言えない。

○ 「作る」ことが先にあって(水辺の楽校などの施設)地域が求めているものが後になっていないだろうか。ハードが先行しているのではないか。自然での体験は危険なことがともなうものだ。今の子どもたちは常識的なルール(川とのつきあい、人とのつきあい)がわかっていない。自然の中で[わざ]を覚えるし、[守る]というやさしさも経験するのだ。

○ 小さいときにはよく遊んだ。それがかなかったからだ。今では原体験の機会がなくなっている。

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